本を読み、書くということ、そして生活雑感
こんにちは、初めまして。
早速ですが初投稿ということで、
なぜこのブログを書くのか、
また、何をテーマにブログを書くのかということを
簡単に記そうと思います。
このタイトルにもある通り、
・「本を読む」ということについて
(読書日記みたいなのも含めます)
・生活を通じて感じた・考えたこと
以上の二点をこのブログでは書きたいなあと思っています。
私は昔から本を読むことが好きで、
学生時代も文学部に進学し、卒業後もその道に進みたいなあと思ってました。
けれど、文学や小説の世界、ひいては、
この世に存在する虚構、現実の真理(自然科学や哲学など)を突き詰めて考えたところ、
社会というものを経験した上で改めて、
文学またはその他の分野に対峙したいなという考えに至りました。
語彙が少ないため、少々荒い言い方になってしまいますが、
あれっ、象牙の塔で見える世界って実は狭いんじゃね?
と思い立ったからです。
私の学生時代の恩師は、
「幸も不幸も、文学は在野で研究することができる学問だ」という旨を仰っていました。
これは別に文学を軽視しているわけではなく、むしろ反対の意味で捉えるべきでしょう。
どんな場合においても、文学は人を感じさせ、考えさせ、通り道を歩かせながらも、
あらゆる進路を提示してくれるものだ、と。
研究って言うと、文献にあたって考証して…となんか堅い印象がありますが、
私がその時、そして今後もしたいのは、あくまで文学を通じて、人間っておもしれえな〜と感動するとか、しんどい時とかに語りかけて欲しい文を探りてえな〜とかそんなニュアンスです。
もちろん、文体や時代考証から読みほどいて自分なりに味わうことも醍醐味です。
ただ、究極は作品を一読して、作品の持つ記憶を辿ることで、その瞬間に書かれた人間や自然の息吹を現在にて感じたいということに至りますね。
ちょっと、話が逸れますが、
2016年に荒木優太さんという在野研究者の方が、
『これからのエリック・ホッファーのために』という大変優れた著作を、
上梓されました。
この本が世に出る直前まで、私はちょうど営業マンをやっており、
日々の業務に忙殺され、とてもじゃないけれど読書ログを残すなんてことはできない、
と追い込まれていた状況でした。
正直言って、「俺以外全員敵、ぶっ○す」位のヤバい気持ちと、
いわゆる「ぼんやりとした不安」の二極のみで生きていた実に危ない情緒不安定な時期でした。
そんな時に、何かこうカチッとハマるような養分をくれるもんはなかろうか……!
と、藁にもすがる思いで、週末の神保町をゾンビのように徘徊していた折に出会ったのがこの本でした。
この本を読んでハッとさせられたことが三点ありました。
まず一つは、
・飽くなき探究心があれば歳など関係なく、道を拓くことができる
ということです。
また、二つ目は、
・本を読むということは、新たな世界を知ることと同時に、新たな自分を発見できる、
または、自覚していた自分を確認することができる
そして、三つ目は、
・読書をしてインプットするだけではなく、このように文字に起こすことで、
解釈の度合いが深まる
ということでした。
必ずしも、上記三点を直接的に書かれたわけではなく、私的解釈なので悪しからずです。
とにかく、とてもよいタイミングに出会えたと思っております。
分け入っても分け入っても黒い闇、な状況に射す光明と言っても言い過ぎではなく。
特に二つ目は、ある程度読書の習慣がある方なら既知だろう事柄ですが、
今現在の自分の世界の見方・世界からの見られ方を読書という事と関連させて改めて考えると、その「当たり前なんだけれど、立ち位置を推察できるということは大事だよね」ってことに気付かされます。
この読書体験から、また本のことが好きになりましたね。まことに、ありがたや。
で、そういった大切なことに気付いたものの、
それから読書ログをこのようなブログという形で残したのかと言うとそうではなく、
iPhoneのメモ帳に読書メモというような短い文章で書き残しておりました。
では、荒木氏の著作に出会ってから、なぜこのタイミングでブログを開始しようと思ったのか
。きっかけは日記です。
ちょっと色々あって生活の場が変わった一昨年の暮れ頃から昨年春まで、
非常に短い期間を定めて継続して日記を残すことを試験的にしていました。
読書したものについてではなく、雑記に近いです。普通の日記ですね。
ふと、怖いもの見たさで、今朝その日記を読んだのですが、
まあ端的に言って消えたくなりましたね。
と言うのも、まあ恥ずかしいのなんの。
書かれた内容や文体によって、もちろん恥ずかしさに悶えたり、日々の自身の行いの拙さに打ちひしがれたり、垣間見える卑屈さにイラついたり、などなど一般的にネガティブと言われる感情の波が溢れんばかりにゾゾゾ…ッと。
コーヒーを飲みながら、何故かドヤ顔キメて読み始めたんですけど、2分くらいでマグカップが空になりましたし、顔は多分引きつってたと思います。
が、一方で「その時」に「そのように」感じて・考えて・行動した自分が
いたのは間違いなく、どこか矜持や郷愁に近い感情を抱いたのも確かでした。
ネガティブの波ちゃんたちは自己を客観的に眺めることが出来たがゆえに、引き起こったのではないか。
よく飲み会の帰り道や、翌日なんかに一人反省会をして、くわああああ!なんであんなことを言ってしまったのだよお!俺の阿呆がああ!ってなるあれも同じ理由かもですね。
ひいては、日記は書くときではなく、書いて、それを読むときに初めて自己を発見できるのでは、とすら思いました。
この行為を通じて「書く」ということの面白さ、または、「書く」ということが、自身の考えにメスを入れ、また縫合するというような行為に近いということを確認することができました。
まとまりがなく恐縮ですけれど、
とにかくそういう理由で始めることにしました。
なお、この記事でも余すことなく露見していますが、
私の文章力の拙さが半端ではないので、
読み苦しいことも多々ございましょうが、
何卒、ご容赦下さいますと幸いでございます。
ということで、これから拙文をよろしくどうぞでございます。