「上京」の何たるか、ここに極まれり───夏目漱石『三四郎』

こんにちは。

もう、すっかりと春ですね。

 

ふわふわとした空気に陶酔感や高揚感がありながら、身辺の変化が激しい不思議な季節ですが、お好きでしょうか。

今年、花粉症デビューしたっぽい私は、春に対する苦手ポイントが増えてしまいました……。

 

さて、そんな春と言えば、進学や就職、転勤といった出来事がつきものですが、

一冊目は上京に関わる作品を。

 

漱石先生の名著『三四郎』です。はい、今更です。

 

あらすじは、もう散々出尽くしていますが、一応。

きわめて平たく述べてしまうと、

主人公・小川三四郎という青年が福岡から上京し、片思いをしていた女性にフラれる、というものです。

 

しかし、やはり大文豪・夏目漱石

筋の中に散りばめられた、一見すると何気ない場面や、その小さな場面での登場人物たちの言動が、人間や日本という国、あるいは、「社会」というものの内奥をつぶさに表しています。

 

なので、今回は、始まりから終わりの時系列になるべく沿って、

気になった箇所をピックアップしながら、自分なりに考察していければと思います。

 

※ なお、岩波文庫第79刷のものを通じて書いてゆきます。

 途中で表示するページ数は上記版における同ページを指しています。

 

 

 

・「上京小説」としての三四郎

 

さて、前置きが長くなり、大変恐縮ですが、

この作品は、「上京小説」とでも言うべき要素がぎっしりと詰まっています。

 

ここで上京と言うのは、距離・段階といった物理的な意味での上京はもちろん、

人間として「都会的」なクセや対人関係に直面するという意味での上京も含んで、こう呼びました。

 

どういうことかと言うと、

まず、「東京=近代化された社会=自我が不自然に膨張した世界」という(無理矢理な)置き換えをします。

すると、「三四郎=近代化される以前の世界を体現した人物」という(これまた無理矢理な)置き換えが可能であり、「上京」が意味するところは、「近代化した日本における自我」を知る、あるいは獲得するということを意味するんじゃねえ?というのが、私なりの拙い考察でございます。

 

ただし、これがやはり漱石先生ですし、いわゆる「行間を読ませる」文学というもので、ストーリーうんぬんではなく、登場人物の細かい所作から人間の姿や、どのような気持ちをもって人と関わるのか、

あるいはコミュニケーションを図るのかということが、前述した通りエグいくらい描かれております。

 

まず、全編を通じて目立つのが、

三四郎視点からの「頗る平凡」な会話と、

「しばらくの間はまた環境(注:作中では「汽車」)の音だけになってしまう」状況。

 

つまり、なんの緩急もない面白くない会話しか出来ず、かつ、

その状況に対して「ヤベぇ、なにも広がらねえ……気まずい」という描写です。

 

三四郎は、物語冒頭において、

東京へ向かう汽車と接続するために名古屋まで向かう車中、ある婦人と同席します。

 

上に挙げた、「頗る平凡」な会話と「汽車の音だけになってしまう」状況は、

この作品の冒頭にあたる、この汽車の中で繰り広げられます。

 

で、これ、よくあるかと思います。

突然、何を言い出すのかという話ですが、本当にあるんだなあ、それが。という感じで。

 

職場、学校、親戚の集まり…。

あらゆる「社会」を形成しているシーンでは、この間の持たせられぬ空気がほぼ必ず存在し、また、その「間の無い空気」というものに対して、

気まずいことこの上ないという感情を持つ人が、多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

しかも、その気まずさを払拭できる、気の利いた何か、

いや、別に気の利いた言葉でなくてもいい、その沈殿した空気に穴を開けられる他愛ない会話を振ることができないこと。

 

そして、その振ることができない自分を俯瞰して見つめている自分が、自らにツッコミを入れるという、自意識過剰兼コミュ障だ、と自虐的な方、多い気がしてなりません。

(少なくとも、私自身もそうです…)

 

で、この三四郎で描かれる、その沈殿した空気の処理方法に戸惑うという状況は、

あえて乱暴な言い方をしてしまい恐縮ですが、

「いやいや、そんなのいちいち気にしてたら何にも出来ないじゃん! もっとコミュニケーション積極的に取れよ!な!!?」という、

「世の中の人間は全て自分のようにアゲアゲに関わり合えるなどといった、少々想像力の欠いたウェイ系の方」には、なかなか理解しづらいかと思います。

 

あくまで、漱石先生のまなざしは、

「気を遣いすぎてしまう」多くの日本人らしい日本人に優しく注がれているのだと思えてなりません。

 

彼の目線に映った世界は、この作品で余すことなく描かれており、

また、その状況に出会うということも、三四郎にとっての「上京」と言えるのではないでしょうか。

 

話を戻します。

三四郎は、その後、名古屋で下車し、その気はなかったのに人妻のお願いで宿まで案内することになり、

その気はなかったのに、女中さんの手違いで同じ部屋に泊まらされる状況になります。

 

挙げ句の果てには、この人妻に同じ風呂に入ってこられる未遂や、同じ布団で寝る未遂など、

ちょっとマジかよグヘヘ、というシチュエーションが連続するわけですが、三四郎はことごとく全てを断ります。

まるで、女性という存在を忌避するごとく。

 

そして、一夜を何事もなく過ごした三四郎は、別れ際の駅でこの人妻に、残酷な言葉を投げかけられます。

 

「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」(P.15)

 

ああ、三四郎、涙目。

もうね、これは消えたくなりますね。こんなこと言われたら。

据え膳食わねば何たらと言いますが、ここまでストレートに言われるとは。

 

また、この後の三四郎の様相がひたすらウブなそれであり、

 

 三四郎はプラットフォームの上へ弾き出されたような心持がした。車の中へ這入ったら両方の耳が一層熱り出した。しばらくは擬っと小さくなっていた。(P.15) 

 

と、あります。

 

続いて、なんとなくきまりが悪くなったということで、ろくに読めもしないフランシス・ベーコンの論文をただ開き、目だけ文章を追いながら、頭の中では昨夜のことをグルグルと考える……。

 

完全にやっちまった展開ですね。

私が人のことをウブだとか、色々馬鹿にできる立場では全然ありませんが、あまりに可哀想な状況です。

 

と、この後三四郎は汽車に揺れて東京へ向かうわけですが、面白い点として、

他の乗客である髭の生えたおじさん(先生と呼ばれるひとであることが後に判明)とのやりとりがあります。

 

女性とのやりとりに関してウブな自分に地団駄を踏んでいた矢先でしたが、

いやいや、俺には輝かしい未来があるんやでえ!と都合よく妄想をし、

たちまちゴキゲンになった三四郎は、あろうことか近くにいた、この髭の生えたおじさんを見下し始めます。なんという軽薄さ……。

 

しかし、ふとした流れで水蜜桃(厳密には桃とは違うらしいです)を一緒に食べることになり、三四郎はそこからおじさんとの会話が弾みます。

が、しばらくすると、あろうことか三四郎はおじさんの話に少し飽きてしまいます。

 

途中、一瞬だけおじさんの口から正岡子規の話が出るのですが、

おじさんの話に退屈していた三四郎はそこだけ「興味があるような気がした」のです。

 

夏目漱石正岡子規はとても親密だったといいます。

いわゆるマブダチというやつですね。

なにしろ、「漱石」という号は元々、子規のもので、それを譲り受けたくらいだそう。

 

そんな間柄であることも起因してるでしょうが、

この登場人物内の会話の中でサラッと実際の友人のことを持ち出してページを割くということは、よほど子規と仲良しだったんですね。美しいです。

 

 

 

三四郎が感じた孤独

 

さて、三四郎は、まもなく東京へ到着します。

そして、到着直後に母から、野々宮くんという人の元へ行ってみなさいと連絡をもらいます。

 

野々宮くんは、東大理学部の学生で、ひっそりと一人で「活きた世の中と関係のない」場所、いや、場所どころか、世界を舞台にひたすら研究を続けている、将来を嘱望された青年です。

 

三四郎は、現代文明を象徴する東京のめまぐるしい環境を一身に浴びながら、

一方でそのような環境に背を向けるような生活をしている野々宮くんを訪ねたのち、

一人で三四郎池をぼんやりと眺めていると、ふとこう感じました。

 

 三四郎が擬として池の面を見詰めていると、大きな木が、幾本となく水の底に映って、そのまたそこに青い空が見える。三四郎はこの時電車よりも、東京都よりも、日本よりも、遠くかつ遥な心持がした。しかししばらくすると、その心持ちのうちに薄雲のような淋しさが一面に広がって来た。そうして、野々宮君の穴倉に這入って、たった一人で坐っているかと思われるほどな寂寞を覚えた。熊本の高等学校にいる時分もこれより静な龍田山に上ったり、月見草ばかり生えている運動場に寢(引用者注:正しくは、ウ冠の右下箇所が「未」。以下同字同様)たりして、全く世の中を忘れた気になった事は幾度となくある、けれどもこの孤独の感じは今始めて起った。(P.30)

 

すみません。ちょっとここで、私事をば。

ちょうど、本作を読み直していた頃、私は秋田県に滞在していました。

 

偶然ですが、三四郎は福岡から東京へ来て、孤独を感じている。

私は、東京で仕事をしていましたが、訳あって辞め、秋田へ来て、孤独を感じている。

 

もちろん、三四郎のパターンとは場所こそ異なりますし、何より年齢や状況も異なりますが、やはりふだん自分が浸かっている世界と、使用している「言語」(ここでは単に言葉としての意味でなく、広義での言語、換言するとコードとしての言語)とで、丸切り違う環境に来ると、孤独を感じてしまいます。

 

また、私はここでは、知己がおりませんでした。

もっとも三四郎は、このシーンのあと、佐々木与次郎という気のいいあんちゃんと付き合うようになりますが。

 

実際、職場の仲間や地元の方々と会話をしたり、共に酒を飲んだり、そのまま勢いで音楽を作ったりという、楽しいことをして過ごしていましたが、気が付くとひとりの時間が割合多かったような気がします。

 

すると、考えても仕様がない思念がむくむくと湧いて出たりします。

ひとりでいたり、何かに忙殺されていないと、思っても仕様がないことがすぐに湧出するのが人の業ですね……。

「殆ど堪えがたいほどの静かさ」の中で、三四郎も私も、そして生活の場を変えた人たちみんな、暮らしているわけです。

 

と、この作品を読んだら、たまらなく共感を覚えるよね!という主張をしたいがために、この話をしてしまったのですが、そろそろ作品に戻ります。

 

しばらくして東京の景色にも慣れ始め、講義をサボることを覚えたり、

与次郎という友人を得たりした三四郎は、自分をとりまく世界が以下の三つ存在することに気付きます。

 

  • 1つ目の世界

 1つ目は、家族や、旧知の人たちといった、故郷と関係する世界です。

 以下の文にてまとめられています。

 

 一つは遠くにある。与二郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。凡てが平穏である代りに凡てが寢坊気ている。尤も帰るに世話は入らない。戻ろうとすれば、すぐに戻れる。ただいざとならない以上は戻る気がしない。いわば立退場のようなものである。三四郎は脱ぎ棄た過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえ此処に葬ったかと思うと、急に勿体なくなる。そこで手紙が来た時だけは、暫くこの世界に低徊して旧歓を温める。(P.84)

 

  • 2つ目の世界

 2つ目は、外の世界と隔絶しながらも、学問の道を突き進めるという世界です。

 同じように以下の文にまとめられています。

 

第二の世界のうちには、苔の生えた煉瓦造りがある。片隅から片隅を見渡すと、向うの人の顔がよく分からないほどに広い閲覧室がある。梯子を掛けなければ、手の届きかねるまで高く積み重ねた書物がある。手摺レ、指の垢、で黒くなっている。金文字で光っている。羊皮、牛皮、二百年前の紙、それから凡ての上に積った塵がある。この塵は二、三十年かかって漸く積った貴い塵がある。静かな月日に打ち勝つほどの静かな塵である。

  第二の世界に動く人の影を見ると、大抵不精な髭を生やしている。あるものは空を見て歩いている。あるものは俯向いて歩いている。服装は必ず穢ない。生計はきっと貧乏である。そうして晏如としている。電車に取り巻かれながら、太平の空気を、通天に呼吸して憚らない。このなかに入るものは、現世を知らないから不幸で、火宅を逃れるから幸である。広田先生はこの内にいる。野々宮君もこの内にいる。三四郎はこの内の空気をほぼ解し得た所にいる。出れば出られる。しかし折角解し掛けた趣味を思い切って捨てるのも残念だ(P.84-85)

 

  • 3つ目の世界

 3つ目は、恋する女性が自分の目の前にいるという世界です。

 

 三四郎はこの世界の存在に気付いた時点で、美禰子という美しい女性と三四郎池を眺めていたとき、よし子の見舞いにいったときの計二回、すでに会っています。

 彼は、彼女にただならぬ気持ちを抱き始めているのです。

 

 この3つ目の世界については、

 1つ目と2つ目と同様に、作中の文にてまとめられています。

 

 第三の世界は燦として春の如く盪いている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つ三鞭の盃がある。そうして凡ての上の冠として美しい女性がある。三四郎はその女性の一人に口を利いた。一人を二遍見た。この世界は鼻の先にある。ただ近づきがたい。近づきがたい点において、天外の稲妻と一般である。三四郎は遠くからこの世界を眺めて、不思議に思う。自分がこの世界のどこかへ這入らなければ、その世界のどこかに欠陥が出来るような気がする。自分はこの世界のどこかの主人公であるべき資格を有しているらしい。それにもかかわらず、円満の発達を冀うべきはずのこの世界がかえって自らを束縛して、自分が自由に出入すべき通路を塞いでいる。(P.85)

 

ここから、三四郎は一つの結論に至ります。

 

それは、「国から母を呼び寄せて、美しい細君を迎えて、そうして身を学問に委ねるに越した事はない(P.85)」生活を理想として掲げようということです。

 

彼はこの時23歳。

もちろん、2019年現在の同年代とは話がすこし違いますが、実に今っぽい考えを示しています。

 

これを、やや無理矢理に現代的に解釈すると、

「実家との関係も大切し、愛する人のいる素敵な家庭を作り、粛々と働く」

 

こんな感じでしょうか。

 

確かに、この3つ全てが揃うこと、それどころか、

1つを獲得することでさえ困難な状況にいる人は多いかもしれません。

 

しかし、例えば大金が欲しい、社会的に名誉のあるような地位について成功したいなどといった、いわば即物的な考えがあまり流行らなくなった現代の人たちが目指すライフスタイルに似通う志向だと思います。

 

こうして、三四郎は上京したことで、この世の中には上記3つの世界があると判断し、

彼なりの目指す道を固め始めたのでした。

 

この姿は、人生のあらゆる場面で「上京」する人に、よく見られる姿と酷似しています。

 

 

 

・「女性」に翻弄される「男性」像あるいは「男性」を翻弄する「女性」像について

 

突然ですが、ここで三四郎をとりまく女性関係を見ていきたいと思います。

 

三四郎は、たびたび女性に翻弄されます。

一人目は、汽車の中で知り合った女性。

二人目は、里見美禰子。彼女は、先述の通り、三四郎が彼女の名を知る前に二度、三四郎に会っています。

三人目は、野々宮よし子。厳密に申し上げますと、はっきりと翻弄されているような描写はございませんが、

いかんせん三四郎が常に強烈に女性の存在を意識しているおかげで、よし子とのやりとり中にも、

細かな心の動きを三四郎は惜しげも無く見せてくれております。

 

さて、作中で主に焦点が当たるのは、二人目にあたる里見美禰子とのやりとりです。

物語中盤に差し掛かるころ、広田先生が家を引越し、三四郎・与次郎・広田先生、そして美禰子の四人で一箇所に集うシーンがあります。(第四章)

 

三四郎はこの広田先生の引越しの際に、広田先生に宿に下宿している与次郎から、あらかじめ掃除をしておいてくれとお願いをされます。

面倒くさそうにしつつも、きちんと友人の頼みをきく三四郎は掃除をしようと思いながらも、やはり面倒くさく、手持ち無沙汰にしていました。

そこで、美禰子がやってきます。

三四郎は初めてここで、美禰子の名前を訊くことになり、それ以降ことあるごとに美禰子のことが離れなくなります。

 

このイベントの後日、菊人形をみんなで見に行くというイベントが発生します。

わいわい楽しい会話をしながら道中をゆくみなみな。

しかし、段々進むにつれて、人が多くなっていき、ついに三四郎と美禰子の二人はみんなから、はぐれてしまいます。

 

ここで、自分たちのことを広田先生たちは探したでしょうね、と三四郎は美禰子に言います。

美禰子は気にしないで、と。

三四郎は何となくきまりが悪くなったので、そろそろ帰ろうかと言い、腰を上げかけましたが、

美禰子の自分を見る目線に気付き、ふたたび腰を下ろし、その瞬間、

「この女にはとても叶わないような気がどこかでした(P.129)」思いがこみ上げます。

「同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた(P.129)」直後、

「迷子」と一言、美禰子が漏らします。

 

ストレイシープ」と英訳されるこの言葉を初めて美禰子が漏らしたこの日以降、

三四郎は授業中に「stray sheep」と、書きまくったり、美禰子からのハガキに「迷える子」と書かれることに舞い上がったり、など、とにかく分かりやすい反応を呈しています。かわいい。

 

まだ、この段階では美禰子にその気があって三四郎にしかけているとはわかりかねませんが、私のようなすぐに調子に乗る人間は、同じような境遇になったとしたら、

まず間違いなく三四郎レベルのウキウキぶりを展開してみせるでしょう。

 

文芸雑誌にも掲載されるレベルの文章を書く友人与次郎の作品を読むと約束したかたわらで、そんなものそっちのけにしてハガキに夢中になってしまう三四郎

 

しかし、そうこうしている内に、三四郎は美禰子に囚われている自身に気づき、

自分を取り巻く状況そのものが忌々しくなってしまいます。

 

挙句、三四郎はあろうことか、自分を弄んでいるのではないかという猜疑心すら抱き始め、美禰子を恨むようになってしまうという……。

もはや、メンヘラに片足突っ込んでいるんじゃないかという。

 

心の平安を取り戻すために、彼は広田先生の家へ行こうとするが、

やはり彼は、野々宮さんと美禰子の関係が気になって仕方がない。

 

三四郎は、二人の共通の知人である広田先生を揺さぶって、二人の関係を訊こうとします。

(この箇所については、次の項にてお話しします。)

 

この、文字どおり「夢中」になってしまっている描写から、完全に惚れた状態にあることがわかります。

 

また、これから、ことあるごとに三四郎は美禰子に翻弄されていくわけですが、

「迷子」になった三四郎の行方はまた、後述いたします。

 

 

 

漱石が望んでいた「他人本位」の社会

 

さて、作中で「自我」と「他人本位」について語られる印象的なシーンが出てきます。

先の項の続きですね。

 

第七章、三四郎が広田先生を訪ねるシーンにて、

美禰子と野々宮さんの関係について三四郎が問い正そうと探りを入れる箇所です。

 

そのシーンは、広田先生の口によって登場します。

  

 「(引用者略)近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。われわれの書生をしている頃には、する事為す事一として他を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過てしまった。昔しの偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(引用者略)」(P.169)

 

え、マジで現代っぽくないですか? と思わず読んでいて漏れそうになりました。

 

漱石が生きた明治維新後の世界は、言わば、ずっと和室で生活をしていた人たちが、

急に洋室へ変更「させられる」のみならず、なぜその必要があるのかさえ、ろくに教えてもらえなかった世界です。

 

「させられる」行為は、自ずと疑問が湧き、なぜ「このような行為」をしているのか、と言う問いが繰り返され、その方向は「自分が」という主語に向けられます。

 

ただ、近代と現代はやはり別物であるなあという感も正直、あります。

 

ここで広田先生の述べる「偽善家」はまるで、「自我」というものが弱いかのような存在ですが、現代における人々の多くは、「自我」の強い「偽善家」が多い印象です。

 

あくまで、行為は善意によるものも多いでしょうが、

「我意識」が肥大化したことにより、「善く」思われたい気持ちが醸成され、

自ずと「偽善家」になるというケースです。

 

「露悪家」はいわゆる不良文化の系譜で語れそうですが、

現代は、もはや表層的な不良=ダサいものという感覚が、多くの人たちに共有されており、

「露悪家」の仮面ではなく、「善」の仮面をつけた「我意識」の強い人たちで構成された時代だと言える気がします。

個人的には不良文化、素敵だと思いますが。

 

いずれにせよ、現代にまで通じる「我意識」というものが、

この作中の時代に造り上げられたものであることは疑いようがないでしょう。

 

西洋の概念が輸入されてきたことで、

「主語=私」と強調される「言語」を人々は使用し始めたからです。

 

 

 

・「偽善」と「露悪」の問題

 

また同じく第七章、三四郎が広田先生を訪ねるシーンにて、

更に深く「偽善」と「露悪」について語られる箇所が出てきます。

 

広田先生は、三四郎や与二郎のような(作中においての)現代の青年は往々にして、露悪家だと言います。

こと、与二郎はその最たるものだと言っています。

 

一方で、自分たちの時代の人間は偽善家だと言います。

どういうことか、と三四郎が問いただしたところ、広田先生は印象的な言葉を残します。

しばらく、引用が続きますが、ご容赦くださいませ。

   

「君、人から親切にされて愉快ですか」

「ええ、まあ愉快です」

「きっと? 僕はそうではない、大変親切にされて不愉快な事がある」

「どんな場合ですか」

「形式だけは理に適っている。しかし親切自身が目的でない場合」

「そんな場合があるでしょうか」

「君、元日に御目出とうといわれて、実際御目出たい気がしますか」

「そりゃ……」

「しないだろう。それと同じく腹を抱えて笑うだの、転げかえって笑うだのという奴に、一人だって実際笑ってる奴はない。親切もその通り。御役目に親切をしてくれるのがいる。僕が学校で教師をしているようなものでね。実際の目的は衣食住にあるんだから、生徒から見たら定めて不愉快だろう。これに反して与二郎の如きは露悪党の領袖だけに、度々僕に迷惑を掛けて、始末におえぬいたずらものだが、悪気がない。可愛らしい所がある。丁度亜米利加人の金銭に対して露骨なのと一般だ。それ自身が目的である。それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の小六(こむ)ずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」(P.171-172)

   

「うん、まだある。この二十世紀になってから、妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充たすという六ずかしい遣口なんだが、君そんな人に出逢ったですか」

「どんなのです」

「外(ほか)の言葉でいうと、偽善を行うに露悪を以てする。まだ分からないだろうな。ちと説明し方が悪いようだ。──昔の偽善家はね、何でも人に善く思われたいが先に立つんでしょう。ところがその反対で、人の感触を害するために、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には偽善としか思われないように仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せられる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直な所が露悪家の特色で、しかも表面上の行為言語はあくまでも善に違ないから、──そら、二位一体というような事になる。この方法を巧妙に用いるものが近来大分殖えて来たようだ。極めて神経の鋭敏になった文明人種が、尤も優美に露悪家になろうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないというのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる」(P.172-173)

  

ここで面白いのが、

「それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはないんだから、万事正直に出られないような我々時代の小六(こむ)ずかしい教育を受けたものはみんな気障だ」

という言葉です。

 

上記に挙げた言葉と、二つ目に引用した文章を照合いたしますと、

与二郎の世代の青年たちはみな、目的と行為が一本繋がりになっているという点と、

それが故に、人に悪印象をもたらすためにあえて、偽善を行うという点です。

 

与二郎たち、彼らのような「上京」化したものたちは、

感情に忠実な行為(正直な行為)を行うことが一般化され、

相手に良かれと思い親切な行動をとること自体が、相手を不愉快にさせるということです。

 

そろそろ平成も終わりを迎える現在の感覚だと、どうなのでしょうか。

 

確かに、正直な方は少なくないですし、

正直な言動をとる人は、ちょっと一目を置かれるようなきらいがあるように思います。

 

さすがに、度が過ぎて正直、特に他の人に対して悪意を含んだげ言動を取る方は、

敬遠されるでしょうが……。

 

ただ、偽善行為をすることが、そのまま相手を不愉快にさせるとは思えません。

あからさまな偽善は煙たがられますが、基本的に最終的な行為が、「その状況にとって善いこと」であれば、むしろ歓待されると思います。

 

「やらない善より、やる偽善」という言葉がある通り、

現代では、与二郎たちの偽善との受容のされ方が、少々異なるようにも見えますね。

 

しかし、やはり漱石先生でして、

「それ自身が目的である行為ほど正直」なのは普遍な事象でしょう。

 

そして、それを「可愛らし」く思われる振る舞いをさらっと行えてしまうのが、

作中現在の青年の姿なのでしょう。

 

三四郎はまたここで「上京」経験を積みました。

与二郎、恐るべしですね。

 

 

 

・人間関係における「借金」について

 

文学作品、こと日本のそれには度々、借金をモチーフとした作品が出てきます。

それこそ、本作の次作『それから』でも、「金を借りる」ということは大事なモチーフとして扱われておりますし、

有名どころですと、漱石門下の内田百間や、借金の大家である太宰治の諸作品などでも借金はメインテーマです。

 

で、この作品にもこの借金というものが上手に用いられています。

三四郎は与二郎の借金の責任を肩代わりをし、美禰子から借りることになります。

三四郎は真面目な人間なので、美禰子に会いにいくたびにお金を返そうとします。

 

しかし、途中で三四郎は思います。

この借金があることで美禰子に会う口実が出来る、と。

逆に、返すともう会えなくなるのではないか、と。

 

 三四郎は懐に三十円入れている。この三十円が二人の間にある、説明しにくいものを代表している。──と三四郎は信じた。返そうと思って、返さなかったのもこれがためである。思い切って、今返そうとするのもこれがためである。返すと用がなくなって、遠ざかるか、用がなくなっても、一層近付いて来るか、──普通の人から見ると、三四郎は少し迷信家の調子を帯びている。(P.240)

 

こうして何度か、返そうか返すまいかとあぐねていた三四郎でしたが、

画工の原口のもとでモデルをしていた美禰子に会ったさい、ついに渡そうとします。

動機は、──どうでしょう。特に明言はされておりません。

 

しかし、三四郎はここでもう美禰子に思い切って、返済することで、

想いを断とうとしたのではないかと思えてなりません。

 

あぐねてあぐねて、思い切る。もう、届かない女性なのではないか。

モデルをしている横で、ただぼうっと立つのもバツが悪い。ならば、と。

 

しかし、美禰子は突っぱねます。

モデルとして座ってポージングをしている美禰子の前で、

立ったまま三四郎はお金を渡そうとしますが、美禰子は受け取らないのです。

  

「この間の金です」

「今下すっても仕方がないわ」

 女は下から見上げたままである。手も出さない。身体も動かさない。顔も元の所に落ち付けている。(P.240)

  

この強固な態度で突っぱねられたら、私だったらまあめげます。

いや、めげると言うか、「えぇ…なんかきまりが悪いんですけど。なにこの空気…マジで逃げたい」みたいになると思います。

けれども、ちょうど画工原口が、二人に違う話を振ってくれたおかげで一応空気は何とかなります。

 

しかし、ここで不燃焼になった三四郎は、やはり想いを告げずにはいられません。

画工原口が筆を置き、お茶でも飲もうと二人を誘ったとき、美禰子は帰ると言い出します。

 

そこで、三四郎もここぞとばかりに一緒に帰ろうとします。頑張れ!!

三四郎のこの時の頑張りは上記の流れに続く文にて、こう表現されています。

 

 日本の社会状態で、こういう機会を、随意に造る事は、三四郎に取って困難である。三四郎はなるべくこの機会を長く引き延ばして利用しようと試みた。(P.245)

 

閑静な道を歩いて帰ろうや、と美禰子を誘っても乗らない。ヤバい。

しかし、三四郎の心は煮えくらない。もうそろそろで爆発してしまいそうである。

 

何となく気まずい空気が流れる中で、美禰子は三四郎に、原口に用事があって来たのかと訊きます。否。

では、遊びに来たのか、と美禰子。否。

じゃあ、何で来たの、と再び美禰子。

 

三四郎はこの瞬間を捕えた。

「あなたに会いに行ったんです」(P.246)

  

キター!(死後) ついにぶちまけました。

やってやりましたよ、三四郎くん。あんた、漢やでえ!

 

しかし、「三四郎はこれでいえるだけの事を悉くいったつもりである(P.247)」が、

美禰子は「御金は、あすこじゃ頂けないのよ(P.247)」と、醒めた反応をするのみでした。

 

え、ヤベえ。俺、ヤバくない? と、普通ならなるでしょう。

けれども、一度火がついた男、三四郎はこんなものじゃありません。

一度、バーに弾かれたボールを再びゴールへ叩き込もうとします。

 

「本当は金を返しに行ったのじゃありません」

美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かにいった。

「御金は私も要りません。持っていらっしゃい」

三四郎は堪えられなくなった。急に、

「ただ、あなたに会いにたいから行ったのです」といって、横に女の顔を覗き込んだ。(P.247)

 

やりました。やりましたよこの男。素晴らしいですね、三ちゃん。

不器用で、気の利いた話などろくにできない三四郎でしたが、

勇気をもって、純粋に自分の想いを言葉に乗せて、相手に伝えた瞬間です。

ちょっとこれはマジでかっこいいです。

 

しかしまた、美禰子はこれも躱すような、いや、まるで底の見えない沼に言葉を受け止めたというより、言葉を落としてしまったかのような反応を三四郎に呈します。

 

女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口を洩れた微かな溜息が聞えた。

「御金は……」

「金なんぞ……」

二人の会話は双方とも意味をなさないで、途中で切れた。それなりで、また小半町ほど来た。(P.249)

 

そして、物語の終盤。

教会から出てくる美禰子を待ち受けていた三四郎は、彼女にお金を返します。

 

という、あらすじを追った文はいいのですが、

やはりここでの「借金」の持つ働きはどのようなものなのでしょう。

 

我々をとりまく人間関係には、往々にして「借り」というものがあります。

いわば、一方が、もう一方を助けたことで生じるもの。

あるいは、物質的に何かを与えたことが、受け手によっては、「借りた」と感じることもあるかも知れません。

 

つまり、複数以上の人間関係上に生じる、目に見えない「信頼のボール」が、

この作品では「借金」として描かれているのではないでしょうか。

 

広田先生→与二郎→三四郎→美禰子と連綿に繋がるこの信頼のボールは、

実際の「お金の価値」などではなく、登場人物同士ないし、

人間同士の「信頼の価値」の移りを示しているのだと思えてなりません。

 

この「信頼の価値」を作中では借金というものに与え、

蠢く人間模様の中に投射させ、巧みに物語に絡めているのが特徴と言えるでしょう。

 

 

 

・佐々木与二郎の存在感

 

閑話休題です。

三四郎の学友として、物語の至るところで存在感を発揮する人物、

佐々木与二郎くんについて少しだけお話をしようと思います。

 

彼はなんというか、言い方が少しあれですが、「カワイイやつ」なのです。

羨ましい、こんな感じの男になりたいと思ってなりません。

 

と言うのも、人のお金を代替わりしたくせに、そのお金を馬券で溶かすどうしようもない面もありながら、

精養軒の会(広田先生や画工の方が集まるちょっとしたハイソな会)では、年長者に対して物怖じせずに、世渡り上手といったようなコミュニケーションをしっかりと取りつつ、

言葉少ない三四郎にもきちんと話を振るという気配りの出来よう。 

 

また、自分の師匠である広田先生を大いに称賛し、先生の仕事を評する文を機関紙に寄稿するという真っ直ぐさも持ち合わせつつ、三四郎が美禰子を好いているということを見破る洞察力をも持ち合わせている…。

 

個人的に一番グッと来たのは、終盤に見せる、実は気遣いもできるという一面です。

 

三四郎は観劇をした翌日、高熱を発します。

床についていた彼のもとに与二郎が見舞いに来てくれ、その場で美禰子の近況について訊いてきた三四郎に対し、

なぜあんな女がいいのかと畳み掛けます。

 

しかし、それは三四郎の審美眼を攻めたものではなく、まして本心から美禰子本人を悪く言っているわけではありません。

あくまで、自分自身の女性との過去の話を面白おかしく三四郎に語ることの前フリに過ぎず、

その裏には三四郎を元気付けようというユーモアと優しさが滲み出ているのです。

 

与二郎の話を聞いているうちに三四郎は、美禰子のことを追及するのもバカバカしくなり、ついに笑い出します。

作中で三四郎が笑うのはかなり珍しいのではないでしょうか。

 

こういう場面で親身に聞いてくれる友人も最高ですが、

自虐ネタをしてくれて笑顔をもたらす友人も最高だなあと、思います。

 

なお、この看病のシーンの後、与二郎は三四郎に内緒で医者を三四郎の元へ遣らせています。

マジでイケメン。

 

…という、本当にいろんな面を持ち、実に「モテる」やつだと、僕なんかは勝手に思ってしまっております。

現に作中にて、露悪をしつつも、その態度に嫌味がないから奴は可愛げがある、と広田先生は与二郎を評しております。

 

単純に、「いい奴」ではなく、時には豪放磊落、時には紳士的、といういわゆる「都会っ子」な顔が彼にはあるのでしょう。

 

先述しました「偽善」と「露悪」の中にもありますが、彼には露悪家が一見目立ちますが、その「悪態の仮面」の裏には、真意の悪など存在せず、純粋に自分に対して正直なだけなのでしょう。

 

自分に正直でいるということはなかなか出来ないかと思いますが、そのようになかなか出来ないという人が多いからこそ、彼の魅力がひときわ輝くのではないかと思います。

 

余談ですが、学生時代の先生が、講義の中でキャラクター論について面白いことを仰っていたのを思い出します。

ドストエフスキーの作り出す物語は、なぜ重厚なテーマを扱いつつ、あんなに面白く読めるのか。それは、キャラクターがきちんと色分けされているからだ」と。

登場人物に濃い像を与えると、それだけで彼らが勝手に物語にドライブをかけてくれるのでしょう。

 

 

 

・「上京小説」の泰斗

 

以上、つらつらと拙い考察を続けて参りましたが、

冒頭で申し上げました通り、『三四郎』は「上京小説」と言える要素がてんこ盛りな作品だと考えております。

 

まとめますと、ポイントは以下の通りです。

 

 1.福岡の田舎からの「上京」

 2.都会的社会に潜ることで見えた3つの世界を知るという「上京」

 3.「偽善」が蔓延していた過去から、「露悪」を呈する現代観を悟るという「上京」

 4,社会の欧米化する状況の「上京」

 

いささか、無理矢理ではございますが、

考察して参りましたポイントを考えますと、これだけ多くの「上京」と言えるだろう状況が、この作品には詰まっているのであります。

 

「余裕派(高踏派)」の漱石作品の中でも珍しく実直で戸惑いながらも、

もがき続けようとする青年を描く作品でありながら、

その実、人間における「上京」というものを日常という色を使いながら描き抜いた作品だと言えます。

 

そして、その「上京」に直面しているということ自体を三四郎がどこか「余裕」をもって見つめている、というのもこの小説の特色なのかもしれません。

 

ただ混乱しているわけではなく、どこか俯瞰的。

やっぱり、いわゆる漱石らしさというものがこの作品にも多分に含まれているのでしょう。

 

読むタイミングが限られているように見えて、

意外と、どんなタイミングで読んでも新鮮な気付きが得られる作品ではないでしょうか。

 

後世に残る素敵な作品というものは、往々にしてそのような特徴がある、と思ってなりません。

 

それでは、また。