「怠けた」先にこそ、真実があるんだぜ───梅崎春生『怠惰の美学』
こんにちは。
怠けることはお好きでしょうか。
私は大好きです。布団最高。
出来れば布団の周りに生活に必要なものを置いて、そのまま生活したいくらいです。
近頃、めっきり暖かくなってきましたが、
同時に気だるさも春にはやってきます。
基本的にいつも気だるいですけれど、とくにこの季節は気だるさに拍車がかかります。
そんなときは、だらだらするのが精神衛生に一番いいと思っております。
けれど春が過ぎれば、待っているのはうだるような暑い夏。
文明化が進む現代に甘んじ、家では冷房の下でゴロゴロ。
外に出ては逃げるようにすぐにキャッフェーへ飛び込みウダウダ。
秋は窓を開けて虫の声なんて聴きながら、布団でチビチビ飲酒なんてすると切なさがやってきて最高です。
冬は言わずもがな、布団でヌクヌク以外の選択の余地がない季節でございます。
そうつまり、一年中布団が友達なのですね。布団最高。
布団布団うるさいですね、田山花袋じゃあるめえしってなもんで。すみません。
そんな布団is best friendな人民たちの先駆者が今回のテーマである梅崎春生です。
作品は『怠惰の美徳』(中公文庫、2018年)です。
もう、名前からして素晴らしいですね。
ちなみに、こちらの作品はエッセイスト荻原魚雷氏が集めた随筆集でして、『怠惰の美徳』はこちらに収録された一作品名です。
梅崎春生は主に小説を書いてました(これもまた白眉)が、随筆も優れており、使い古された言い方をしてしまうと、その文はユーモアとペーソスに溢れています。
今回のこちらの作品はその随筆集の中でも、「怠け」にまつわるものばかり集めたもの。最高。
ただ、当然ではありますが、ただ布団最高だぜヒャッホウ! という不毛な文ではなく、怠けながらも世界を冷静に見つめる文が綴られており、その目線は2019年現在にも通じる寂寞さや、切実さが込められているように見えます。
本当は全作品について書いてゆきたいのですが、I部とII部とで計35篇も収録されているので割愛して、特に書きたい作品について取り上げてゆきます。布団に潜りながらね。
・「怠けること」ことは、趣深いんです
著者梅崎は大学を卒業してから、役人として働いていました。
けれども、彼曰く「たいへん暇な役所」で、そもそも彼自身にバリバリに働いて出世しちゃおう! というスタンスなど微塵もありません。
それどころか、その舐め腐った勤務態度を上司にも気付かれており、仕事を振られないという始末。
いや、意識低すぎィ!
上記エピソード含め、以下I部から表題作『怠惰の美徳』より。
しかしわたしはこの生活は苦痛でなかった。生れつき私はじっとしているのが大好きで、せかせか動き回ることはあまり好きでない。体質的に外界からの刺戟を好まないのだ。(中略)私は来世ももちろん人間を望むけれども、どうしても人間以外の動物ということなら、やはり貝類がいい。植物ならまず蘚苔類。鉱物なら深山の滝なんかに生れ変りたい。(中略)忙しそうに見えて、実にぼんやりと怠けているところに、言うに言われぬおもむきがある。私は滝になりたい。(P.15-16)
噴きました。
巻末の初出一覧から算出すると、これを書いたのが32歳。すごい。
32歳が「私は滝になりたい。」とか言ってます。真顔で。名言級のぶちまけ。
けれども注視すべきは、ただの怠け者ではないのでは、ということ。
そういえば私はどちらかというと、仕事がさし迫ってくると怠け出す傾向がある。(中略)これは当然の話で、仕事があればこそ怠けるということが成立するのであって、仕事がないのに怠けるということなんかあり得ない。すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。(P.17)
「すなわち仕事が私を怠けさせるのだ。」という言い切り。笑いました。
いやしかし、これは至言ですね。すごく、わかります。
学生時代のテスト前や、仕事の納期に差し迫ると途端に全てをぶん投げて、
目的もなく散歩を始めたり、部屋で踊り出したり、飲みたくもない酒の瓶を探し出したりと、非常に重なるところがあります。
そして結構、こういう方多いのではないかしらと思わずにいられません。
で、梅崎哲学がただの怠け者と一線を画しているのは、仕事と怠惰との関連を書いた一文でしょうか。
仕事(単なる経済活動ではなく、やるべきこと)というものがあるからこそ、怠けが発生する。
逆に言えば、何もやることがないと怠けは発生しない。
人にもよるかと思いますが、暇を持て余すほど切迫さがないと、
怠けようがなく、何よりそこには美学がない。美学は、余裕、とも換言できるでしょう。
自前で怠けている分には誰にも後指さされるいわれはない。私は自主的に怠けているのである。(P.16)
私自身にしても、ナマケモノといわれるより、閑人といわれる方が気持がいい。(P.17)
積極的怠けの推奨。そして、閑人であることの矜持。
そこには、自らを堕とすという覚悟が底にあるのでしょう。
上司にどう評価されようが、俺は怠けることを取る! という覚悟。
もっと突っ込むと、あくまで受動的に怠けてしまうというわけではなく、閑を取るということは己らしさを保つための美しい行為であり、その行いの善悪は趣きがあるかないか、が問題になっているようにも読めます。
デカダンとはまた種の異なるように読めますが、怠け、いや、閑をとるということはとにかく美学なのですね。物は言いよう。
やることがないなら自分から仕事を見つけてゆけ! という意識の高い人たちにとって、これほどイヤらしく映る「優雅な」思想はないでしょう。
私も積極的に見習ってゆこうと思います。はい。
・「自分を適当に揺れ動かすこと」
先述しました、ただの怠け者との違い。
おそらく、怠けていることを徹底して俯瞰できているか、あるいは、
怠けることによって何が見えてくるのかを知っていること、の二点に尽きると思います。
『蝙蝠の姿勢』では、標榜したいスタイルとしてコウモリやサカナを挙げています。
無為にダラけるネコではなく、風に逆らいながらぶら下がるコウモリや、潮流に逆らいながら静止するサカナ。
この例えが正に梅崎哲学の具現と言えましょう。
あの蝙蝠や魚は、風や水を適当な刺戟として感じながら、自らの姿勢を保ち、且つ楽しんでいるに違いありません。(P.18)
何か自分を脅かす存在、そしてその存在を乗り越えなければ、生き抜くことが出来ない運命。
ただ生きているつもりでも、この自分を脅かす存在というものはあらゆる局面で、必ず現れます。
そして、この存在の大きさ・形は人によって異なりますが、誰しもこの存在を通らなければ明日がないのは明白です。
梅崎はこの事実を形容するさい、「適当な刺戟」という言葉を用いています。
実に的確な表現だと思います。すごいです。
「適当」ではなく、これが「過剰」になるとどうなるか。
それは刺戟と呼べるシロモノではなくなり、害悪・凶器になりうるでしょう。
逆に「緩慢」になるとどうか。
ほんの少しのかゆみ程度のものでしょう。
この微妙なさじ加減が人生と仕事、そして「閑」との関わり方を左右します。
ある程度の張りがありつつ、その張りとの向き合い方を常に模索する。
いかに自分らしく、出来るだけ緩すぎない程度に負担なく、乗り越えることができるか。
梅崎はきっと、終生この生き方と仕事の関わりについて対峙していたのだろうと思います。
自分の生き方と調整できるよう仕事と閑のバランスを保つ。
現代に生きる吾人にも通ずる普遍的な思想です。
そして、そこには「粋」が感じられると、なお良い。
梅崎風に解釈するならば「趣き」といったところでしょうか。
必死こく姿ははたから見ると美しく映ることもありますが、
あくまで本人はそんな野暮な姿はなるべく認めたくない。
小説を書くことは、私には苦痛です。楽しく書いたことは一度もない。僅かに残った余燼みたいなものをかきたてて、やっと燃え立たせるような具合です。そしてそれを文字にしながら、はげしい苦痛と羞恥を感じます。自分が人工的に力んでいること、嘘を書いていること、その他もろもろに対して、じっとしていられないほどの恥かしさを感じます。(P.19)
出来ればあそびを作って仕事にかかり、生きてゆきたい。
でないと、見えるべきものも見えないもんね。そんな意志が覗けます。
そして怠けとは、ただ漫然とぐうたらすることでないことが解ってきます。
大事なのは、怠けと刺戟のバランスを微調整することなのです。
ただ、それがなかなか難しいところですが。
自分を適当に揺れ動かすこと。この適当な振幅の測定がむつかしい。そしてそれから仕事。他人はどういう具合にやっているのかしら。(P.19)
梅崎春生をもってしても、悩ませる問題のようですね。
・「怠けた」先に、見えるもの
ただ漫然と怠けることが「怠惰の美学」ではなく、怠けつつ「適度に揺れること」ことが美学でござろうと解ったところで、じゃあ結局何なのさ? となりますね。
何度か本文章で書いて参りましたが、それは「下から世界を見据えることができる」ということなんじゃないのと思います。思いました。
怠けることで、一旦水準から降り、そこから仕事という張り詰める線をくぐりながら、
ふと周囲を見渡してみる。
あんまりせっつかれた状況ですと、なかなか見渡すなんてこと出来ないと思いますし、何より、怠け者というタグを付けられた立場から見ると怖いものもないでしょう。
変に格好つける必要がないからです。
そこに残るのは生身の人のみが持つことの出来る目線です。
例えば、以下。
私は今でも、青春を豊かにたのしんでいる青年男女を見ると、やり切れないような羨望と共に、かすかな憎しみを感じるのである。(P.24『憂鬱な青春』)
もはや、○chねらーのような言説。けれど、簡単に馬鹿に出来ないのはなぜか。
正直に吐露しているからなのでしょう。
本作品では暗い青春を送ったことを包み隠さずに打ち明けています。
また、続く『世代の傷跡』でも、率直さ・正直さを謳い上げます。
もし現世に新しい倫理があり得るなら、人間の心の上等の部分だけでなれ合ったようなかよわい倫理でなく、人間のあらゆる可能性の上に、新しく樹立されるべきであると私は思う。私は既に日常生活に於て、私自身に対して前科数百犯の極悪人だ。だからこそ私は自分の悲願の深さを信じる。そして血まみれの掌を背中にかくして、口先ばかりで正論めいた弁舌を弄する論者や、果敢ない美をうたう詩人や、うそつきの小説家を憎む。何故皆は、現代の人間が、そして自分が、そのような位置にいることを率直に認めようとしないのだろう。認めた場所から何故始めて行かないのだろう。(P.61)
どうした。急にカッコいいことを言い始めたぞという。
そう、ただの「滝になりたいおじさん」なんかじゃないんです。
怠けの着地点から見つめることで、人の持つヤラシさや虚栄、脆弱さが見えてくるのです。
饒舌なペテン野郎は唾棄すべきだという思いは確かに分かります。
けれど、気付いたら自分もそうなのではないか、という不安が次第に募るのが正直なところ。
まだまだ、怠けの修練が足りていないのでしょう。
正直になることは「適度に」怠け、堕ちることからスタートするのです。
最近、よく老害という言葉にまつわる問題が取り沙汰されますが、
既に60年以上前に梅崎がこれについて斬っています。
それにしても、近頃の若い者に告げるが、近頃の若い者云々という中年以上の発言は、おおむね青春に対する嫉妬の裏返しの表現である。(P.70)
しかし現代においては、近頃の若い者を問題にするよりも、近頃の年寄を問題にする方が、本筋であると私は考える。若い者と年寄と、どちらが悪徳的であるか、どちらが人間的に低いかという問題は、それぞれの解釈で異なるだろうが、その人間的マイナスが社会に与える影響は、だんちがいに年寄のそれの方が大きい。これは言うまでもないことだ。(中略)そして現今にあっては、枢要の地位にある年寄達の中に、ろくでなしが一人もいないとは言えない。いや、言えないという程度ではなく、うようよという程度にいると言ってもいい状態である。それを放置して、何が今どきの若い者であるか。(P.71)
いやぁ怒ってますね。
でも、これは先の『世代の傷跡』における記述と繋がっているように解釈出来ますし、とてもよく共感します。
語弊がなきよう申し上げますが、単純に年齢的な意味合いでのお年寄りを批判しているのではなく、ある種の老獪さやヤラシさを積んだ人間のことを指しているのでしょう。
基本的に若い人というのは衝動や純粋な想いで行動します。(たぶん)
よく、「汚れた」という表現が使われますが、ここにハマる若い人というのは、どういう行いをしたら相手からどう評価されるかということを知ってしまった人と言えます。
そして、そのことを自覚して吐露するのではなく、まるで知らんぷりをしてカマトトぶって高評価に繋げようという行為に見える一抹のヤラシさが、純粋なものを咎めている構図を問題にしているのです。
計算されたなりふりなんて、怠け者にはお見通しだぜってことですね。
・結局、人が好きなんです
基本的に、デカダンというか、諦めから見つめる目線を持った著者なので、
熱くない人なんだなというと全くそうではないのです。
『一時期』という作品を読めば、その所以を知れましょう。
時は戦時中。 「怠け者」もどこかで不安定になるのは当たり前です。
梅崎の周り、みな求めるものは酒。博打。
れっきとした現役の役人でありながら、仕事をサボり、
昼間から役所の倉庫のような場所で同僚たちと博打に耽っていたといいます。
同時に国の情勢の変化に伴い、酒の出所も窮屈になっていったようで、
酒場には、開店のずっと前より行列が出来ていたようです。
この現実を少しでも紛らわすことができる二つ。
梅崎は博打を打つ人々を指して言った、友人の言葉を思い出します。
「誰も戦争に反対する、そんな強い気持はないんだ。(中略)潮の流れから、自分も知らないうちに、はみでてしまっただけなのさ。そのいきさつも、自分では判っていないんだ。だから、似てるんだろう。飲屋にならんでいる連中とさ。そっくりのつらつきだよ」(P.236)
こうして昼間から酒場の列に並ぶようになった梅崎と友人は、
同じ様な顔つきをし、酒を飲むということだけで並んでいる人たちと、
自然と世間話などしながら、彼らの表情や声つきを知ってゆくことになります。
彼らの風体を次の様に述べています。
身体のどこかが脱落したような、ふしぎな臭いを漠然とただよわせていて、声は酒のためか必ずしゃがれていて、(P.238)
そして、一度飲み終わるとまた店の外へ出て、列の最後尾につく。
これが彼ら、また、梅崎の行動であり、纏っていた風体だったそうです。
まるで、ぼんやりとしながら「本道」から逸れた道を歩まざるを得ない、とでも言える日々でしょう。
社会の混乱に真っ当に向き合ってなどいたら、頭がおかしくなる。
大げさに言ってしまいましたが、少しでも避けないとほんとうに、どうにかなってしまう状況だったのだと思います。
ここで述べた社会の意味するところは必ずしも、政局に限りません。
自分を取り巻く人間付き合い、あるいは属するコミュニティでもいいです。
とにかく、周りの社会がゆっくりと、「倫理的に」堕ちてゆくことが判ってしまうと、
たちまち気が触れそうになるのは、すごくよく分かります。
そして、それがゆえに酩酊を求めてしまうことも。
僕にはっきり判っていることは、とにかく今の時代が居心地よくないということだけであった。そういう最大公約数を皆と分ち合っていた。どうすれば居心地よくなるかということは、僕には判らなかった。(P.241)
(中略)生きてゆく情熱をすりかえて一点に凝集させるものを、毎日切に欲していた。それでいちばん手っとり早いのは、酩酊であった。ともすれば頭をもたげる心配をつぶす上にも、これは絶対に必要であった。(P.243)
けれど、ここでふと思います。
なぜ、絶望しかける→酩酊を求める という一連の流れに人は漂着するのかと。
答えはきっと一つで、人に対する想いが真っ直ぐだから、ということです。
何かしら仕事や自分を縛り付ける外的営為にやり切れなさを感じるも、人だけは裏切ることは出来ない。
そして、同様な目に遭う味方を抱きしめることも捨てきれない。
大仰に述べてしまいますが、人に対しての誠実なかなしみを向けていない人ならば、絶望などしないように思えます。
逆に言うと、人をかなしめない人は「転がってゆく」状況に際しても、そこまで動揺することがないのではないでしょうか。
ここで思い出したいのが、
先の項で述べた「自分を適当に揺れ動かすこと」という梅崎の言葉です。
人間は張り詰めすぎていると、いつか必ず破綻します。
これは仕事でも人付き合いでも何でも当てはまると思います。
漠然とした不安に対しても言えるでしょう。
不安に対して真剣に向き合うと、ちょっと大変なことになっちゃいます。
そこで緩和剤となるが、酩酊という、行いなのです。
酩酊という「自分を適当に揺れ動かすこと」でバランスを保つ。
現実から一時でも降りること。これが、生きたい、という想いを支える切実なことなのだと思えてなりません。
いつ死ぬか分からない、いつ無一文になるか分からない。
はっきり言って、皆不安です。戦時下はもとより、いつの時代も皆不安です。
こんなことを言うのもハズいですが、私だってめちゃめちゃ不安です。
だからこそ、生きるためには怠けることが必要で、たまにはちょっとだけ降りることを掲げたいのです。
当時の市井にはこの「自分を適当に揺れ動かすこと」を自ずと行い、
かつ互いの様相を黙認しながら、かなしみ合っていたのでしょう。
以下の梅崎の言葉が象徴しているように読めます。
今大急ぎであおった酒が、また列に加わっているうちに、ほのぼのと発してきて、風景は柔かくうるんでくるのだ。この時僕は始めて、自分を、人間を、深く愛していることに気がつく。それはひとつの衝動のようにやってくる。(P.244-245)
酒好きとして知られた著者ですが、
そこにはこういった背景があるんです。いや、完全に私論ですけれど。
でも、これで咎められても堂々とお酒が飲めますね。
「揺れ動かすために飲んでるんじゃい!」って一発かませば相手は黙るでしょうし。
いろんな意味で。
とにかく、梅崎春生。
これほど「怠けた」先に見える世界を体得した作家はいないかと思われます。
人の蠢く内奥、人の作り出す虚栄、そして人の抱くかなしみ。
たまには、じっくりと怠けて、自分を起点として俯瞰してみるのも面白いかもしれませんね。布団の中でね。
あ、ちなみに、この作品集ですが、上記以外の作品も本当に全てよいです。
「怠けた」先に見える、梅崎春生のかなしみが滔々と感じられるものばかりですからね。